本を作ること

5/19開催の文学フリマ東京38に友人のお手伝いとして参加します。

友人のお手伝いというか、大学時代からユニットを組んで好き勝手にいろいろな本を作っていて、その延長で久しぶりに友人の本の装丁や組版などを担当したのでした。

今ここで宣伝しても直前すぎてどうかなあ、と思うのと身バレ怖いなあと言う気持ちなので、気になる方がいたら直接聞いていただくとして、本を作ることについてすこし書きたいと思ったので書いておくことにします。(これはほとんど覚書のようなものです)


本を初めて作ったのは多分大学に入った時だったと思う。それまでも部誌という形で文芸部で本は作っていたし、もっと小さい頃には絵本もどきをつくっていたらしいけれど、全てを自分で手掛けたのは大学の講義の時だった。任意の音楽をひとつテーマとして設定し、自身で詩や言葉を書いて、それをデザインして本にする、という課題だった。

なかなかまとまらなくてほとんど徹夜で作って持って行った課題の本が、進捗講評で教授に大変褒められたのが私のひとつの転換点になった。私は眠すぎて意識朦朧としていたけれど教授に褒められたのは純粋に嬉しかった。私は昔から本というプロダクトが好きだったので、それが自分にもできることであるとわかったのは大きな気付きだった。

講評の直後に、件の友人に声をかけられて、一緒に本を作ることになった。二人だったし、儲けようという気持ちはなかったから、利益度外視でやりたいことは全部やった。その時はお金がなかったからどこかの印刷所に頼むという方法は取らずに、全部の工程を二人で手作業で進めた。文学フリマは当時もあって、それに出てみたり、デザインフェスタで本を売るということもやったりした。学祭でも売った。お声がけしていただいて、今も詩人としてご活躍されている方と一緒に本を作る、ということもした。楽しかった。そのころの私は文章を書くことが難しかったので、文章は友人がつくって、わたしはその文章をデザインする、という分業制をとっていた。「そう読んでほしいと思った通りに読んでくれて、それを汲んだデザインにしてくれて嬉しい」と言われたのがすごく嬉しかった。毎年2冊ほどのペースで作っていたと思う。

同人誌をつくりはじめたのもこのころだった。本を作ること、手触りやめくり加減、重さ、装丁に読みやすい組版。印刷所に頼むとなると、制約が色々出て来る。だけどその制約の中でいかに良い本が作れるのか、というのを考えるのが楽しかった。実際できたものを手に取った時のよろこびと安堵は何にも代え難いものだった。

社会人になってからは友人とは疎遠になってしまって、私は結局あのよろこびが忘れられなくて、同人誌を作るようになった。私は中身を書くのが苦手だし、締め切りに合わせて作るのも苦手だ。それでも作った。作ることが楽しかったから。


最近、市川沙央作の『ハンチバック』を読んだ。128回の文學界新人賞と169回芥川賞を受賞しているから知っている人も読んだ人も多いと思う。その中にこんな一節がある。


    私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ーー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。


    こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。


わたしは読書マジョリティである。本を作ること、本というプロダクトを作ることは、それ自体は批難される謂れはないと思うけれど、本というプロダクトは確かに読書の難しい読書マイノリティにとってはかなりハードルの高いものだ。私だって体調の悪い時には目が滑って全く読めなくなったりするけれど、それでも『本を読む』行為に対してマジョリティであることは変わらない。

私はけれど、やはり紙の本が好きだ。電子書籍も好きだし使うけれど、選択肢がそれしかないわけではない。私は読書マジョリティとして、読書マジョリティのために本を作る。出ない本の表紙だけを作ったりもする。

今、素人が本を作る時、読書マイノリティに対して何かできるかと言ったら、多分何もできない。電子書籍として頒布することは難しい。頒布が終わってすぐに中身をSNSなどにALT付きで投稿することも、現実的であるとは思えない。

いつか同人誌という形のものでも、皆等しくそれを読める、というふうになっていけばいいと思う。賛否両論も会社の都合や著作権などクリアせねばならない課題は多いけれど、いつか、いつかそういう日が来ることがあって欲しいと思う。

コメント